#931 弱さを覆って下さる主

 おはようございます。尼川匡志です! 

 

昨年、私は心臓弁膜症の手術を受けました。今までこの手の手術は、胸の真ん中を開き、肋骨を切り、左右に開いて人工弁に取り換えるのが主流でした。
しかし、私の執刀医は取り変えるのではなく、ダメになっている弁を再形成するという手術をする方なんです。
しかも胸を開くのではなく、内視鏡で心臓の中に入り、弁を形成する手術をされたんです。
今の医療技術の素晴らしさを実感しました。その結果2週間後には無事退院してたんですね。

理想の男性像:強い人

体力は術後ずい分落ちましたが心臓は至って良好です。手術は完璧だったんですが術後私を悩ませた一つの問題がありました。
それは痛みです。私はもともと痛みに弱い人間でした。何の痛みかと言いますと心臓と肺に透明のドレーンという管が入れてあったんです。
このドレーンが痛かったんです。でも看護師さんに聞きますと、「平気な方もおられますよ」と言われるんですね。
まあ、そう言われますと私は何かとても弱虫のダメ男のように感じてしまったんです。
私が理想とする男性像の一つは痛みに強い人です。映画で言うならばアーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローンのような人ですね。
ピストルの弾に当たっても、「布で縛って置けば大丈夫!」と言って再び戦えるような男です。ですから痛みに弱い自分が私は好きではないんです。

弱さは人と人を結びつける

しかし、今回の手術でこの考え方を少し改める事にしました。と言いますのは、私が入院している間、全国のたくさんの友人や知人たちから激励のメールをいただいたんです。
その中には今まであまり親しくしていない方も含まれていました。そのような方は、たいていご自身が病気で苦しんでおられたり、家族の中に深刻な病を持っておられるような方だったんです。
つまり弱さを持っている方だったんですね。その方たちのメールに本当に励まされたんです。そして分かったことがあります。
痛みや弱さを持つ人は他人の痛みや弱さを思いやることが出来るんですね。
つまり、弱さというのは人と人とを結びつけるものなんです。
強さは確かにいいですが対立を生みます。しかし、弱さは支え合うことを人に与えてくれるんです。
私の弱さはもしかしたら他人の弱さを思いやるために与えられてるのかもしれないと考えたんです。

キリストは人と同様に弱くなられた

聖書にこのような言葉があります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
この大祭司とはイエス・キリストの事です。この方は「私たちの弱さに同情できない方ではありません。」と書かれているんですね。
なぜなら、キリストは強さを持たれる万軍の主なる神です。しかし、同時に人としての弱さを身にまとってくださったと言うんです。
悲しみや、痛みや、寂しさも全てご自分で体験し、味わってくださったんです。だから弱さを持っている人をさげすむことなく、ばかにすることなく、見下げる事はないんです。

弱さは自分では解決できない

この社会の中で弱者と呼ばれる人たちも、イエス・キリストには安心して近付いていくことが出来るんですね。
弱さを持ってる人は自分の弱さを決して良いものとは思っていません。むしろいやだと思っていると思います。
生まれつきのものなのか、何らかの事情である時背負わされたのかは別として、自分の力ではどうにも解決できないんです。
私たちの生きる世界ではこの弱さは歓迎されません。しかし、どうする事もできない弱さにもがいている人は多くおられるんですね。

取税人という嫌われた職業

今からお話しすることは弱さと言っていいのか分かりませんが聖書にこのような記事が記されています。
今から2千年前のイスラエルで、最も毛嫌いされていた仕事は取税人という仕事でした。
これは当時イスラエルを支配していたローマ帝国の手先となって、ユダヤ人からローマの税金を徴収する仕事を請け負っている人たちのことです。
彼らは税金を集めながら不正を働き、私腹を肥やしていたんですね。ですから同胞ユダヤ人からは徹底的に嫌われました。

同胞から金を取り立てる取税人

レビという男

カペナウムという街に通行税を集めている取税人がいました。名をレビと言います。彼がどのようないきさつで取税人という仕事を選んだのかはわかりません。
しかし、お金は儲かるが、人には徹底して嫌われるこの仕事を、自ら進んで選ぶには何らかの事情があったと思います。
心に埋めることの出来ない傷や弱さがあったのではないかと私は想像します。

レビを見つめられたキリスト

ある日、レビがいつものように収税所に座って税金を集めていました。
彼はふと人の視線を感じたんです。誰かが怒りを込めた目でにらみつけているんだろう、そんな事は恐らくよくあることでした。
そして、その視線の方に彼が目を向けて驚いたんです。
レビを見つめていたのは、怒りの眼差しでも、さげすみの眼差しでもなく、心からレビのことを案じ、労わるような眼差しだったんです。イエスの眼差しです。
彼は今までそのような目で見られた事は一度もありません。彼は今日まで自分の弱みを見せることなく、必死で隠し、虚勢を張って生きてきたんですね。
弱さを見せたら終わりだと思っていました。しかし、本当に慈しみ、包み込んでくれるイエスの愛にこの時触れたんです。
イエスは今まで出会ったどんな人とも違っていました。そしてイエスはレビに言われたんです。「わたしについて来なさい。」

弱さを覆ってくださる方キリスト

彼は収税所から立ち上がって従って行くんです。彼の人生は変えられました。弱さは誰にでもあります。
しかし、それを自分の力で解決することは出来ないんです。努力でカバーしようとしてもどうにもなりません。
ですが、それが人間として必要なことなんだと、私たちの住む社会は要求してくるんです。でも自己解決をできないのが人の弱さなんです。
それは誰かに覆われ、支えられなければならないんです。その弱さを心から同情し覆ってくださる方、その方こそイエス・キリストなんです。

弱さを誇れる人生

パウロの言葉をご紹介します。
「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
弱さを誇れる人生、弱さをキリストが全て覆ってくださる人生に入ることが出来る、パウロはそれを体験したんです。
それではどのようにすればよいのでしょうか。それはレビのように、今いる、あなたの弱さを隠し、ごまかしてきた場所から立ち上がり、イエスに従って行くことなんです。
その時あなたの人生は変えられて行くんですね。その人生を進まれる事を心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
Asiah:弱い時に強くされ

今日のみことば
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
(ヘブル人への手紙4:15)