#925「人となられた神 イエスキリスト」

 おはようございます。高原剛一郎です! 

先日、某コーヒーチェーン店でいつものように『本日のコーヒー』を注文しました。料金を支払おうとすると「お客様の分はいただいております。」というではありませんか。
私は、すぐに店の中を見渡しましたが、友人や知り合いは見当たりません。「誰が払ってくれたんですか?」「男性ですか?女性ですか?」「痩せていますか?太っていますか?」

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すると店員が洒落たことを言ったんですね。「幸せそうな人でした。」
その日一日、私はずっと幸せな気持ちでいました。誰かは知らないけれど、誰かが私を愛していてくれるんだと分かったからです。
今日、私は、お姿は見えないけれど、あなたを愛してやまない方を紹介したいのです。
目には見えないけれどあなたを愛する方、それは、あなたをお造りになった神です。神様はあなたを大切にお考えになっている証しとして、イエス・キリストをこの世界に送ってくださったのです。このキリストの降誕を祝う祭りがクリスマスです。
今日、歴史上最初のクリスマス、イエス・キリストがお生まれになった当日に御使いが語った言葉を通して、神様の愛と救いをお知らせしたいと思います。
聖書にこう書いてあります。


きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ここから3つのポイントで神様の愛を考えましょう。

人になられた神キリスト

第一に、キリストは神なのに人として生まれることで、人に対する愛を明らかにしておられるということです。
数年前、私は北関東の集会に招かれました。ある朝、現地の友人のお誘いを受けて早起きし、近くの森までバードウォッチングに出かけたのです。彼は双眼鏡とボイスレコーダーを持参していました。森の中に入って静かにしていると、小鳥たちのさえずる声が響き渡っているんです。彼はそれを録音して自分の部屋で聞くというのが癒しの時間なんですね。
いつも野鳥たちが集まる所に行ってしばらく黙っていると、やがて、群れをなして真っ青な色をした小鳥たちが木の実をついばみ始めました。私はこんなに近くで野鳥を見るのは生まれて初めてです。それで、どうしてももっと近付きたいと思いました。今なら手のひらに餌をのせて差し出せば、手のひらに乗って来るんじゃないか、もしかしたら、肩にとまるんじゃないかと期待したんですね。
それで、そうっと息をこらして一歩踏み出したその瞬間、野鳥たちの群れは一斉に飛び立ってしまったのです。別にさらって食べるつもりはありません。それどころか、私は好意的な気持ちで鳥たちに近付いたのです。それなのに小鳥たちは一目散に逃げていきました。何故なんでしょう。小鳥たちにとって、人間はあまりにも巨大すぎ、強すぎ、恐ろしすぎる存在にしか見えないからです。
強大な存在が強大な姿のままで接近すると小さな存在には、ただただ恐怖でしかないのです。もし私があの野鳥の群れの中にすんなり受け入れられるように近付くすべがあるとしたら、それは私自身が野鳥の一羽になること以外にないと思います。
それと同じことが、神と人との関係においても言えるのです。人間にとって太陽は熱すぎる存在ですね。宇宙は広すぎる存在です。その漆黒の闇は暗すぎるものです。そして、これらのものをお造りになった神は、この宇宙よりももっと大きく、もっと広く、もっと深く、もっと強大な方なのです。
神が神の栄光のままであるなら、人は恐ろしさのあまり誰一人神に近付くことはできないでしょう。だからこそ、キリストは神のあり方を捨てて人間としてこの世に生まれてくださったのです。

罪の解決のためにこの世に来られた

第二に、キリストは私たちを罪から救う救い主となるために来てくださったことです。
アメリカの黒人教育の先駆者として有名な人物にブッカー・T・ワシントンという人がいます。彼は二十世紀初頭、アメリカ南部で5000校以上の学校創設に貢献しました。
彼の自叙伝である『奴隷より立ち上がって』という本は、アメリカの歴史に大きな影響を与えた名著として知られているものです。多くの人々から尊敬され、政界、財界、教育界でも広く知られた偉人なのです。
ある時、彼はアラバマ州のタスキ-ギ学院の学長職を引き受けたのでした。その直後のことです。彼が街の高級住宅エリアを歩いていると、一人のお金持ちの白人女性に呼び止められます。そして、薪割りをして2~3ドル稼ぐ気はないかと尋ねられたのです。「私、自分でやるにはちょっとキツすぎるからねぇ。」と言うんです。ワシントン学長は特に急いではいなかったので、にっこり微笑むと袖をまくりあげ、そのしがない肉体労働に取りかかりました。薪を家の中まで持って入って積み上げていた時、一人の少女が彼の正体に気づくのです。そして、ワシントンが帰った後で彼のことをその女性に告げたのです。
次の日、彼女はひどく恐縮して学長室まで行き、長々と昨日の非礼な態度を詫びたのです。すると、ワシントンはこう言ったというんですね。「全くお気になさることはありませんよ。私は時々ちょっとした肉体労働を楽しむんですよ。それに、友人のために何かをするのは何時だって嬉しいことですからね。」
彼は自分に対して上から目線でものを言い、安いお金で長時間労働を命じた女性のことを、同じ大学のある、同じ街の住人であり、友達だと思っていますと言ったのです。これは、友のためにしたことで、苦々しい思いをさせられているのではないのですよと伝えたんですね。
やがて、彼女は友人たちに呼び掛けてタスキーギ学院に寄付金を贈ったというふうに言われています。彼女は自分ができないことを代わりに、しかも喜んでやってくれた学長の人格に感服したのです。
ところで、人間が絶対に自分でできないことの一つに、自分で自分の罪を償うということがあります。キリストは私たちの罪を、私たちに代わって償うために、この世界に来てくださったのです。
赤ん坊として誕生したキリストは、やがて成長し三十歳の時に公に活動を始め、三十三歳の時に十字架にかかってくださいました。そして、私の罪の何もかもを背負って、私の代わりに神から裁きを受けてくださったのです。そればかりか、死んで三日目に復活してくださったのです。この死とよみがえりをもって、私たちの罪を解決するために、この世に来てくださった方がイエス・キリストなのです。

約束されていた方キリスト

第三に、キリストはダビデの町で生まれたことです。
ダビデというのは、キリストがお生まれになる1000年前のイスラエルの王様なのです。聖書の預言によると人類の救い主は、このダビデ王の子孫から生まれると約束されていたのです。
そして、このキリストが来られる700年前にはダビデの生まれた町ベツレヘムでキリストが生まれるということが預言されていたのです。キリストがダビデの子孫として、ダビデの町で生まれたということは、神が約束をきっちりと果たされたということなのです。
このように、神様はキリストの生涯を通して、どんなことがあっても約束を守ってくださる方であるということを証言なさっているのです。
”キリストを救い主として信じるものは、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ”
これは神の約束です。どうぞ、あなたもイエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。