#958 究極の神対応

メッセンジャー似顔絵

おはようございます。那須清志です。

今日も聖書が語るグッドニュース、福音についてご一緒に考えていきましょう。
私の友人のお父さんが手術をされました。付き添っていたお母さんと友人は手術後すぐに病室に向かいましたが、一人ずつという決まりがあったのでまずお母さんが入られました。
出てくるなり、げっそり痩せてかわいそうだった、みたいに言ったそうです。「ええ?」と思いながら、次に友人が入ってお父さんを見て思わずにやり。急に痩せるなんてあり得ない、そうです。お母さんは他の人と間違えて声をかけていたようなのです。
思わず笑ってしまう微笑ましい話ですが、これと似たようなことを人間は神に対して行っていると聖書は語ります。
私の魂を造られた真の神を、木や石で作ったものに置き換えてしまったり、神さまと呼び、拝んではいても神でないものに神としたりしていると聖書は注意しているのです。

カット

正しい神認識がありますか?

「神」対応?

さて、「神対応」ということばを聞かれたことはありますか?企業などへのクレーム対応が驚き関心するほど行き届いていたり、配慮されていたりするときに言われるものです。
イギリスに住む7歳の男の子がクリスマスプレゼントに人形をお父さんに買ってもらいました。
お父さんから失くさないように外に持っていかないように注意されていたにもかかわらず彼は嬉しさのあまり外出のときに一緒に持っていきました。そして、失くしてしまったのです。
しょげてしまった息子は、お父さんから人形を作った会社にメール出してみたらと言う言葉をまともに受けて、事情を説明したメールを出したのです。
メーカーのサービス担当から次のように返信をもらいました。「このような場合、代わりの人形を送ることはできません。しかし、その人形が出てくる物語の中の先生なる人に相談すると、『これからはお父さんの言うことをきちんと聞くように伝えつつ、ただで送ってあげなさい。』」と言われたので特別に送ります。」
このメーカーが作っているおもちゃの世界のイメージに基づいて粋な対応をしたということで「神対応」と言われたのです。
これも微笑ましい話で、人間の予想をはるかに超えるすばらしい対応ということで「神」ということばを使っているのですが、唯一の真の神の対応ははるかにすごいものでした。

神は人に救いをもたらされた

聖書の次のようなことばがあります。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

神は、神から遠く離れた人間のために救いをもたらしてくださったというのです。
聖書は人間の不完全さをしばしば指摘します。罪を犯さないよう警告します。神を崇め、人間同士愛し合うように何度も勧めます。神の清さを強調します。神の裁きがあることを語ります。
私たちにとって耳の痛いことが多いのですが、どうしてここまで厳しくいい続けるのでしょうか?それは神の人間への期待の表れです。
人間がすばらしいものとして造られたゆえなのです。

イメージに合った姿

芸能人や政治家、スポーツ選手などが犯罪や問題を起こしたときに大きく取り上げられるのはどうしてでしょう。
みなの関心を引きやすいニュースだからということもあるでしょうが、一番は「人々の模範、手本の行動取るべきだ」という思いがみなの心に刻まれているのはないでしょうか?
問題を起こしたとき、コマーシャルに採用されていた人ならその宣伝は自粛されます。その会社のイメージを引き下げることになるからです。
神は人を「ご自分のイメージに似せて造られた」と書かれています。人は自分が思っている以上にすばらしいものとして造られているのです。
そのイメ―ジに合うように生きるように、神から勧められているのです。愚かなことをしてしまった場合は、思っている以上は神が悲しみ、その悪を指摘するのです。「あなたがそんなことをするために生かされているのではない」と。

不完全な人のためのイエス

この不完全になってしまった人間のために、神は救い主を送ってくださいました。それが「人の子」と言われている。イエス・キリストのことです。
多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためとありました。
私たちの神の前に、人の前に犯した罪の刑罰をイエス・キリストは身に負ってくださいました。
私たちはイエスを身代わりとしていのちを得ることができるようになったのです。

新幹線で身代わりになった男性

先日、痛ましい事件がありました。新幹線の中で男が暴れ、3人の男女の死傷者がでました。
2人の女性が襲われたときに一人の男性が立ちはだかったのです。梅田耕太郎という方です。
その方が通っていた高校の関係者のインタビュー記事を見ました。
「ニュースで名前を聞いたとき、別人であってほしいと思ったけど、そんなことをとっさにできるのは、梅田くんしかいないから…。」とありました。
彼は若いときからスポーツ万能、囲碁将棋にも長け、音楽でバンドを組んでライブも行う、文武両道を絵に描いたような人だったそうです。
東大に現役で入り、大学院に進み、有名企業に進み、有能な研究者でもあったのです。
そのような人が、凶刃に倒れました。しかし、彼のおかげで少なくとも2人の女性の命は助かりました。
彼のいのちの身代わりで二人の命は救われたのです。

究極の「神対応」

梅田さんの通った高校はミッションスクールでそこでの合言葉は『men for others(他者のために)』というものだったそうです。
他の人のために生きること、それが人間として一番貴い生き方だと教えられていました。その教えの模範となったのはイエス・キリストの生き方です。
イエスは神の子でありながら、王として仕えられるためにこの世界に来られたのではなく、人間に仕えてくださいました。
いのちに溢れた方で、罪なく死ぬ必要のなかった方が、人間のために命を捨ててくださいました。それも最も悲惨な十字架にかけられて。
人間世界の中で不条理なことが数多くありますが、最も不条理な出来事はイエス・キリストが罪人とされて無残な死を遂げたということです。
神はこのイエス・キリストを通しての救いを人間に用意してくださいました。
これが単なるよいお話しや考えではないことを明確にするために、イエスを死後三日目に復活させ、新しい命を人々に示してくださいました。
私たちが今もっている地上の命はいずれはなくなりますが、神の救いを受けたものは復活したイエスのいのちと同じものを受けることができます。
神から離れた人間に対する「十字架と復活」による救いこと、究極の「神対応」なのです。

天国で再開できる希望

冒頭、自分のご主人を間違えたお母さんの話をしました。実は、これを聞いたのは、そのお母さんの告別式のときです。
お母さまはその後、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、天国へ迎え入れられたのです。
このような話を和やかに分かち合えるのもクリスチャンの葬儀ならではです。
この地上での別れはつらいものですが、天国で再会できる希望があります。
あなたも是非、この神が用意された救いをご自分のものとしてください。


使用CDジャケット
Joyful Praise Churdh:十字架の下で

今日のみことば
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
(マルコ10:45)